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清水ののぶちゃま

  • author: 清水ののぶちゃま
  • 清水に住む42歳の単なるアルコホーリックのサラリーマン。妻、娘一人のいい男。ACでウツもち。
    好物はウイルキンソンのジンジャエール、杏仁豆腐、焼き鳥と枝豆。副業は銭屋官兵衛主宰:山信證券でのウイークトレード。そりゃまだ、金も欲しいさ…ハムスターの「さくら」の人気急上昇!!娘同様、かわいいのー
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    アルバイト②
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    このバイトで目がおかしくなり、目を開けて自分の顔をコピーすることができるようになった。

    これは、大学4,5年頃の最後の方のアルバイトであった。
    「国際医学◎◎センター」かっこいい名前でしょう。
    東京信濃町にある有名大学の医学部図書館の医学雑誌の論文を大量にコピーするのが仕事。夕方6時から11時まで、時給はよかった。その時間内に、何百冊もある医学雑誌のなかから特定の論文をコピーするのが主な仕事。食い詰めた学生が主なバイト。1987年頃のことだからまだ、「フリーター」と言う言葉は一般的ではなかった。でも、大学を出たけれどや、中退した人たちもごろごろしていて、チームで仕事をするのでみんな仲良しだった。

    主に欧米の医学雑誌だから、それぞれ内科の本、外科の本、がんの本、泌尿器の本ぐらいのことはわかっていても、その内容はわからない。請求された論文をコピーするのだ。でも医学雑誌だと写真が掲載されているものが多く、みんなで「この写真はすごいぞ!」とか「こんなのでも生きている!」「でっかい***!」なんてワーワー言ってコピーをとっていた。

    初めて酒の味を覚えたのはこの頃かもしれない。代々木駅の方に連れられていって立ち飲み屋で、焼き鳥と焼酎なんか飲んで!ウヲッカもはやっていた。
    当時、昼間は法律事務所、夜はこのバイトで掛け持ちしていたので、翌年の会社の初任給よりいい金を稼いでいた。学校は週に1コマいくかいかないか(就職留年をしていた)だったから、仕送りはなくても十分にやっていけた。

    その時、金融機関で働くことが決まっていたので、「この人たちこれからどうするのだろー、一生バイトで生きていけるのかな?」と心配になっていたけれど、本人たちはいたって御気楽ムードであった。仲間から「のぶも正社員なんかやめろ」とか「スーツ姿似合わないぞ」なんていわれてからかわれていた。

    でも、みんな本当にやりたいことが見つかるまで、取り敢えずそこで待っていたんだと思うようになったのは、私が会社に入ってからだ。なんてサラリーマン生活は、退屈で馬鹿らしいものだと思うことと引き換えに気づいたものだった。彼らが僕に浴びせた言葉は的を得ていた気づいたときは遅かった。僕も本当に好きなことをやってご飯が食べていければ、親の体面なんか気にすることないのにと、もっと早く気づいていればウツ病なんかにはなっていなかったと思う。

     好きなことをやって、ご飯を食べていければ仕事は何でもよい

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    未分類 | 08:18:36| Trackback(0)| Comments(0)
    私のアルバイト①
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    中華街で2番目に好きなところ。3番目関帝廟。1番は食べるところ…

    いままで、いくつのアルバイトを経験したのだろう。郊外のマンションのビラ配りから、法律事務所まで…
    その中から今日は最初のアルバイト「街のラーメン屋」

    <街のラーメン屋>
    うちは貧乏で、高校のときから奨学金を貰っていたし、学業もほぼ優秀だったので、私は、特別にアルバイトが認められていた。お客であった街のラーメン屋の厨房へと入っていった。その後、人手が足りなくなると、東京から帰省していた時にも、呼ばれていたから、通算7年ほどやっかいになることになる。
    もう今は、場所も若干移転してしまい、親父さんは亡くなり息子の代になってしまった。
    仕事は、出前、洗い物、簡単な調理、野菜の下ごしらえなどであった。メンマを塩抜きしたり、木耳(きくらげ)を水で戻したり、ラーメンなど簡単なものを作ったり…
    浪人時代も予備校にはいけず、昼間、図書館で勉強し、夕刻から次に日の2時まで、その年は約半年ほど働いた。そこで貯めたお金で、参考書を買ったり、公開模擬試験を受けたり、服などを買っていた。
    飲食店のバイトは、食事(夜食も)が出るのがメリットである。時給も標準以上。
    高校時代、ある程度の成績だったから、浪人時代も、たまに公開模擬試験を受け、実力を維持していることを確認していた位か。当時、英単語は約1万語、日本史の山川書店の用語集はほぼ暗記していた。後は◎会の通信添削をやっていた。
    そのラーメン屋で覚えたことは、準備、手順である。お客がいっぺんに注文して、親方が何から作り出すのかを推定し、その準備をするのだ。子供がいたら子供のものから作るのが鉄則だし、タン麺、五目ラーメン、エビそば、かにそば、かた焼きそば、中華飯を作る材料はほぼ同じで、それらが注文されたときは、それぞれの器やご飯を用意するのだ。
    結構、頭や気を使うのよ。ホント。
    私は結構、親父さんに可愛がられ、店をやらないかとまで誘われた。でも、街のラーメン屋の仕事ってとってもハード。体力がなければ続かない。そして七夕やお祭りの時などはもっとすごくなり、割増賃金がでたり、ユンケルが出たり、そして、打ち上げの日にはスナックのカラオケに始めて連れて行ってもらったり、夏休みは海水浴でたらふくビールを飲ましてくれたり。
    料理の世界は、働けば働くほど身になる。でも料理人は短命の人が多いね、重労働だから。
    一杯のラーメンを食べるためには、30分働かなければならない。お金の大切さを学んだアルバイトであった。

       ラーメンのどんぶりに指を突っ込むな!といいたい。


    未分類 | 09:57:32| Trackback(0)| Comments(2)
    皆様有難うございました
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    何故か、先週から「のぶ家」では頂き物が沢山ありまして、冷蔵庫など満杯になってしまいました。経済的に厳しい折、援助物資はありがたいものです。以下、頂戴したものをお礼方々紹介しましょう。
    <メロン>
    豊橋の伯父さん、毎年メロン有難うございます。
    チョット若かったので、数日冷蔵庫で熟成させておきましたが、今年のメロンもおいしかったです。我が家ではメロンはお金を出して買うものではなく、伯父さんからいただくものと考えています。もう一個は明日ゆっくり味わっていただきます。伯父さんも一人身で寂しいこともありましょうが、たまには電話させていただきます。いつまでもお元気で!!

    <枇杷>
    千葉の兄さん、姉さん、枇杷有難うございます。
    先日は、車の運転有難うございます。招待券をいただきましたら来年はご家族でお出かけください。お姉さん、くれぐれも「用具」を持参でお願いします。
    久々に枇杷食べました。数年ぶりです。小さい頃はあまり好きではなかったのですが、柿と同様、歳をとるにしたがい、こういう果物が美味しくなるようになりました。メロン同様、自分では買わない食べ物ですが、箱一杯いただきまして感謝です。兄さんは枇杷の食べすぎで子供の頃、お腹を壊したこと忘れないでください。まだ若いのもありますので、冷蔵庫で冷やしつつゆっくり頂戴いたします。お姉さんは、「のぶやき」の存在を知らないので、メールで美味しかったと連絡があったことにしておいてください。来月伊東で楽しみましょう。

    <トマト>
    戸塚区の真利子さん、完熟トマト有難うございます。トマト本当に好物なんです。切るとエキスがでてしまいそうなのは、冷やし丸ごと、塩を振って食べました。1回2個が標準的分量ですが3つ食べたときもありました。もう、パンパンにはじけそうな赤い実はなかなか手に入りません。伯父さん伯母さんには酒を完全にやめ、健康に留意しているとお伝えください。一正さんも働きすぎに注意してください。真利子さんも腕白の世話大変ですがあと少しです。頑張ってください。

    <プラム>
    病院の風間さんいつもお世話になっています。今日は、完熟プラム有難うございます。私は食わず嫌いですが、かみさんと娘が大変喜んでいます。熟した方から順番に食べるようにします。粗忽なかみさんですが上手に使ってあげてください。
    <てんぷらなど>
    向いの靴屋の杉山のおばさん、てんぷらなど頂戴し有難うございます。一食分家計が助かります。また娘のことをいつも思っていただき有難うございます。何故か、うちの娘は近所のおじさん、おばさんに人気があります。また可愛がってあげてください。

    <煮物・ラッキョウ>
    お義母さん、ラッキョウわざわざ漬けてくれて有難うございました。ボリボリとやっています。いただけるものは借金以外いただきますので、あまりそうなときは早めに我が家に回してください。

    <松坂屋の店員さん>
    いつも、ラップにつられてお宅様の商品を買い求めてますが、今年はくじで「佃煮セット」(柳屋本店)もあたりました。お歳暮のときはもう一つラップ下さい。

    <飯田さん>
    いつも娘の服を頂戴しましてありがとうございます。いつも新品同様なきれいなもので、ブランド品など値の張るものも多くあり助かります。もう、5年生になる娘に変な話ですが、実の両親は子供の服を数着しか買わず、いつもお姉ちゃんのお下がりばかり着させていますが、娘も当然のように喜んで着させていただいています。お姉ちゃんも勉強大変ですが頑張ってください。

          皆様、本当に有難うございました。





    未分類 | 00:32:36| Trackback(0)| Comments(0)
    棚卸しに関する一考察
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    またもや登場「さくら」ちゃん。娘が写真の掲載をせがむので。

    会計学、特に簿記論においては、「資産をいくらで評価するのか」ということは長年の論点でした。資産の中でも、流動的な資産、特に棚卸資産については、価格(時価)が上下したり、数量が減少したりすることがあります。ここで、これを解説してみたいと思います。

    ある家電量販店でブラウン管TVが10台在庫としてあります。その仕入価格は10万円でした、売買の希望価格は12万円としたいと考えています。しかし、液晶TVが急速に普及し売れ行きは芳しくありません。
    決算期末当日がやってきました。在庫の調査(棚卸)をすることにしました。そうしたらいろいろな問題が発生していました。まず、帳簿上10台あるはずのブラウン管TVが9台しかありません。もしかしたら、従業員がネコババしたのかもしれません。残りの9台のうち、陳列用に店内に飾られていた1台が傷物になって、希望小売価格では到底売れないことが予想されました。まあ、4万円程度で売れれば御の字でしょう。さらに、倉庫に山積みになっている8台のTVは、液晶TVとの比較でもはや12万円では売ることができなくなり、8万円位でやっと売ることができると従業員たちは判断しました。では、この棚卸しによっていくらの損を計上すべきなのでしょうか。
    ここでは、ブラウン管TVの総額を、数量と価格(評価額)とに分解して考えます。
    ①TVが1台、実際に紛失しています。したがって、帳簿価格10万円を「棚卸減耗損」として損失として計上する必要があります。
    ②陳列用のTVはもはや4万円の価値しかありませんので、10万円から4万円を引いた6万円を「強制評価損」として計上しなけれななりません。時価が取得した価格の50%以下になった場合は強制的に評価損として計上しなければなりません(規則)。
    ③残りの8台の評価については、その処理について評価が分かれます。ある販売店員は、「僕のセールストークで12万円で売ることができます」といい、他の販売員は液晶TVの人気から「8万円に値引きすれば売れる」といいました。主任は後者の意見を尊重し帳簿価格から2万円引いた金額で評価しようと決めました。そのため1台あたり2万円、合計8台16万円の「(任意)低価評価損」を計上しました。

    したがって、①で10万円、②で6万円、そして③で16万円、しめて32万円の損を計上することにしました。帳簿上の総額100万円から32万円を控除し、ブラウン管TVは68万円となりました。

    これが、会計学上の評価損の考え方の概略です。これを自分自身(アル中の交通事故)に置き換えて考えてみることができます。①まず、酒で事故を起こし車をお釈迦にしました。これは「棚卸減耗損」に相当するものと考えられます。そして、②顔に勲章とはいえない傷を負いました。これは「強制評価損」と言えるかもしれません。そして、ご近所に「あの人はある中で事故を起こした」と悪い風評が立ち男を下げました。これを「(任意)低価評価損」と考えることができます。
    一般企業でなかなか認めたがらないのは③の評価損でしょう。まず任意ですし、いずれ価格の回復があるかもしれないと考えるからです。利益に余裕があれば計上することもありますが、赤字の状態でこれを受け入れることができるでしょうか?

    AAのステップでも同じだと思います。この③任意の部分を、敢えてみんなの前でさらけ出し、膿みを出すような気持ちで一時的な損として捉えることができるかが回復の鍵となるのではないのでしょうか。これを認めることは底打ち、裸一貫になることです。しかし、膿みをだしきってしまえば後の傷は軽く済みます。そしてステップではことあるごとに棚卸をすることを勧めます。これは真実の姿をいつも表すことに他ならないものと考えます。


      商売上、実地棚卸を継続的に行うことは不可欠です。

    未分類 | 00:58:02| Trackback(0)| Comments(1)
    一週間の棚卸し⑦
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    ねずみは縁起がいい。ハムスターの「さくら」も縁起がいい!!

    <体調>
    最近、体調は芳しくない、特に、睡眠時間が細切れで、合計しても、私が満足する水準に足しいていない。体内時計が壊れている。しっかり体調を維持管理する必要がある。メガネのレンズが痛んだ。まだ買ったばかりなので無償で修理してもらえるはずである。こういう突発的なことにも心理的に対処できない自分がいる。

    <AA活動>
    最近、どうもグループミーティングにでても上滑りの感じがして、集中できていない。もう一度、基本からということで、スポンサーとBBを数頁ごと精読している。読み飛ばしていたところなどに真意が隠れていた。

    <山信證券:銭屋半兵衛>
    いままで、現物の商いに終始していたが、勉強として信用取引を始める。よく、信用取引は怖いと言われる。ある本を読み考え「信用取引が怖いのではなく、その仕組みについて無知なのが
    怖いのだ」と考え方をかえる。信用取引は、世界のなかで日本で米相場において発達してきたのは周知の事実。勉強不足を痛切に感じる。NY市場の状況がおかしい。普通、月曜日は相場は下げると考えるが、本当にそうか、日本経済は好調でなはずだ…

    <株主総会>
    株主総会に初めてでかけ、経営陣に質問する。「いうべきことはいまねばならぬ」と感じる。天気頼みのこの会社、今年の夏は、暑いのか、冷夏に終わるのか。てるてる坊主でも作ろうか。
    帰りの、新幹線、隣に知的そうな若い女性が発泡酒違う銘柄で2本買って乗り込んできた。アル中にならなければよいがと思う。

    <同期Yの退社>
    6月半ばで退職したとの葉書が来た。有給休暇も未消化で「何故休暇や病気になったことにして退社しなかったのか」と電話で話したが、「きっぱりやめたかった」との事。昨年秋に、二度目の結婚をしたばかりなのに、次の就職先のあてもなく、これから探し始めるとのこと。奥さんも同意のうえという。収入は半分になってもよいとのこと。よっぽど、会社にいるのがイヤだったのだろう。やめてしまったのなら、早く新たな一歩を踏み出してもらいたい。

    <火曜日に会社>
    月曜日に心療内科とメガネや郵便局などにゆき、すっきりとした気持ちで会社に出たい。でもうつ病もちに「最初から全速で仕事しろ」といわれたからカチンときている。

    <壊れためがね>
    また出費。ある程度は保証で填補されるのだが痛いなー



             お願いだからコメントください!!

    未分類 | 08:46:03| Trackback(0)| Comments(4)
    株主総会
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    記憶に残る一冊、城山三郎「総会屋錦城」。

    私は、ある上場株式会社に籍を置く者だが。自社株を持っているわけはなく、まさか役員ではないので、自分の会社の株主総会に出席したことはない。

    大学時代、商学部だったので、当然、株主総会に関する事項は一通り学んだ。それよりも、その頃、城山三郎氏の「総会屋錦城」、「百戦百勝」から始まった、数十冊読んだ企業小説・マンガの中に、株主総会の場面に出くわしたことは山ほどある。

    そして、山信證券主宰の銭屋半兵衛として、当然、株主総会召集令状は沢山、郵送されてこともあるが、一度としてその権利(議決権など)を行使したことはなかった。郵便も返送することもないこともあった。

    しかし、これからは何事も経験すべきであると思い、千葉県にある、とある会社の株主総会に出席しようと思い立った。この会社、珍しく、土曜日開催であり。株主を含め4名まで昼食や飲み物がとり放題であり、スポーツ施設(プール、テニス、エアロビなど)やり放題だったから、ちょうど兄が、当該会場の近くに住んでいたため、これを巻き込み出席しようと考えたのだ。

    株主総会は一言でいえば「セレモニー」である。この会社の総会には、暇人もいて、結構質問も多く飛び出した。90分位、かかっただろうか。私も初めて、挙手し、「35番ののぶでございます。上期と下期の業績を比較すると…」などと質問をぶつけてみた。
    「暖簾に腕押し」の回答であったが、総会の議事録には名前、質問内容は記録されたことであろう。

    株主総会も、国政選挙や地方選挙と同じように「投票して何ぼのもの」である。投票せず、「世の中間違っている」とぼやくのが筋違いであると同じように、議決権を行使しなければ、その会社がどうなろうと自己責任となってしまうのではないだろうか?

    人間、言いたいことがあれば、臆することなく言えばいい。わからないことがあれば聞けばいい。
    「王様の耳はロバの耳」と同じように、思ったことを「壺」に向かって言って蓋を閉めるのではなく、面と向き合って言えばよい。言わなければ、当然自分のことをわかってもらう可能性は小さい。目で訴えてみても駄目だ。きちんと信念を発言すべきだと思う。

    私が、ブログを始めた(始めさせられた)きっかけっは、根本には「自分のことをみんなにわかって欲しい」というところから始まっている。そして、私のブログを読んで共感なり、反感なりの感情を抱いていただければ幸いである。

    私は、本来、ズケズケと物申すタイプの人間である。言わないとストレスが溜まるだけである。最近、いわなければならないこともじっと我慢していることが多い。そして立派な病気になってしまった。
    「言った者勝ち」とはいわないが、「言わないと損」である世の中になってしまった。もっと自分の考えなりを、自己表現してもよいのではないだろうか。


    「35番、のぶでございます、御社の上期と下期の業績をー」

    未分類 | 22:34:26| Trackback(0)| Comments(0)
    今日一日
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    この前の金貨の山は刺激が強すぎたみたい。今日は「千両箱」で皆様にも開運を!!

    <睡眠時間>
    やはり、体内時計は狂っている。2時間寝ては起き、しばらくして寝付いても1時間半弱で早期覚醒してしまう。この3日間で10時間強位しか寝ていない。やはり診察して貰おうか。

    <会社にて>
    研究所の所内勉強会で「リアルオプション」を勉強しているが、皆、実際に株式を運用したことがあまりない阿世の研究者である。基礎となる株式投資でさえ、その状況であるから、プル、プットという言葉は教科書に出てきても単なる「用語知識」でしかない。
    せめて、株式投資を実際にやってみて、机上の学問と自分のお金を運用する際、いかに気持ちが変わるのか知ってもらいたい。要は、自分の金を勉強の材料とすれば、真剣味も違うし、そこに「欲望」という心理面の葛藤が入り込むことを知るべきである。
    ましては、信用取引で売りから入ることなど、実体験としてないので、オプションの本当の所は理解できないだろう。

    <山信證券:銭屋半兵衛>
    私は机上の学問は「屁の役にもたたない」と思っている。まずは自分でやって失敗も経験すべきである。実践あるのみ!!
    今日は週末、できる限りすっきりとした状態で休日に臨みたい。
    これは多くのディーラーも思っていることなのである。「玉」を持ったまま休日を安心して過ごすことはできないのである。
    今朝方、ニューヨークが大幅値下がりした割には日本市場への影響は小さかった。私にとってよかったのか悪かったのかわからない。

    <今日の夕方は東京・千葉へ>明日、たまたま、権利確定日に株を所有していた会社の株主総会が明日の休日、千葉県の山奥で行われる(上場はしてるのよ)。
    その会社は、株主総会が「しゃんしゃん」で終わらぬよう休日に開催し、昼食も出してくれる。また、スポーツジムも開放してくれる。
    ちょうど、北海道から栄転してきた兄の自宅から近いので、兄の家族と土曜日、その株主総会に出席するため私は上京する。
    まだ、東京駅周辺の再開発ビルもゆっくり見たことがないのでじっくり調査したい(私は不動産の鑑定屋が本業なのであるから)。そして、兄の家族と食事でもしたいと思っている。でも、私が単独だと、株主配当より交通費の方がかさむ。だから兄の家族にも参加してもらい、株主総会の雰囲気も体験し、株主気分を満喫していただきたい。

    <その他>
    金曜日の「のぶやき」は出発前に公開していくが、土曜日の分については公開できるか現時点では確定していない。少しでも楽しみにしている読者の方々ご迷惑をおかけします。兄の自宅のPC環境がよければ、土曜日は千葉からお便りいたします。

    今週末、皆様も楽しいひと時を過ごすことができますように。




    未分類 | 05:01:59| Trackback(0)| Comments(0)
    あるエセ作家は…
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    松本清張記念館の彼の書斎(館内にて復元)

    もう、「のぶちゃまのつぶやき」を書き始めて毎日連続して60回位になる。手を代え品を代え、原稿を埋めてきたが、そろそろ限界に近づきつつある。昨日は金貨の山で、読者の方に脅かしをくれたりして…

    私は、もともと文章を長く書くのは好きでないし、その気力もない。小学生の頃。よく夏休みの作文で「読書感想文」や「夏の思い出」などを書くのがとても面倒であった。例えば400字詰原稿用紙3枚以内という条件がついていれば、タイトルで2行、名前、適度な間隔で面積を稼ぎ、3枚目の2~3行目にたどり着いたら終わりというものであった。

    サラリーマン生活に入ると、いかに文章を短く書くかということを指示されたため、それは素直に従った(笑)。
    ところが、大学院の修士課程に企業派遣され修士論文を書くのは実に困難を極めた。その大学院では、慣例として、論文を立派な表装で綴じ込みをおこなうこととされていたため、背表紙を糊付けするのには最低A4用紙で100枚以上ないと上手く閉じられないため、そこから論文の長さが導きだされていた。昔は、原稿用紙に書かれていたたため、英和辞書ほどの厚さの論文も見かけられたが、今は、通常ワード、エクセルで書くため、100枚の紙を確保するのは難儀なのことなのである。内容そのものはとにかく、いかにして量を増やすのに苦心したものである。

    それから次に、不動産鑑定評価報告書というものを書く仕事に就いたのだが、そこでは、「標準文例集」なるものがあったっため、威厳のあるカッコいい文章を書くのは意外と簡単なのであった。

    それで、今回の「のぶちゃまのつぶやき」の草稿である。「このタイトルで書きなさい」という指示でも制約でもあれば、なんとかヒントとなるのだが、固定的に見ていただいている読者の方々を最低限満足させるのは大変であると身にしみて感じている。当初の方針が、毎日更新だからそれは曲げたくない意地もあるのです。

    さて、話は飛ぶが、誰しも松本清張氏の作品やそれを映画化したものは目にしたことがあるだろう。彼の生誕の地、北九州市小倉城近くに、松本清張記念館が建てられている。出張のついでに立ち寄ったのだが、此処にくれば、彼の作家としての意欲・執念というものを感じざるを得ない。とにかく「すごい」の一言である。今の◎◎賞、○○賞受賞者には大変失礼だが「格」の違いを目の当たりにするのである。
    記念館では、彼が草稿を練る段階での緻密な資料などが床が抜けんばかりの重量で堆積している。

    また、驚くことに本格的に執筆活動を開始したのが40歳前後なのである。あの「点と線」は49歳の時の作品なのである。大器晩成とは彼のことをさすのであろうか。私も42歳になるところであるが、彼の創作活動を見てみると、「まだ何かやれる!!」と感じさせられるのである。

     もう42歳、いやまだ42歳。老いてますますさかんなり

    未分類 | 21:14:40| Trackback(0)| Comments(0)
    私とお金の哲学
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    こんな金貨を千両箱につめてみたい。「銭屋、そちも悪よのー」、「お代官様ほどでは、おほほほ…」

    私のうちは、はっきり言って「貧乏」であった。その傾向が今でも続き、私には「経済的不安」が付きまとっているといっていい。お金のために「自分がどうなってしまうのか」、「リストラされたらどうしようか」と悩みに悩み神経症・ウツ病にもなってしまった。

    私は、アル中の次男坊、子供の頃から計算は得意、子供の頃、百姓から天下人へ、立身出世の人である「豊臣秀吉」にあこがれ、マンガ本の歴史物語を読んでいた。

    私の、大学における学部は「商学部」である。なかでも簿記、財務諸表論、原価計算、管理会計などの会計学を主に、そして基礎理論として経済学を学んだ。
    そして、アルコールメーカーの内定を断り、金融機関にハンティングされ、その会社で留学させてくれた大学院では「経営管理研究科」でマネジメントコントロール。ここはいかにビジネスを成功させるかを学ぶところの最高峰と言える。学問的には「金融道」を目指していたわけだ。もっといえば、私の専門知識の領域は、不動産の鑑定評価である。土地のあるべき価格を「いくら」と金額表示するのがその責務である。
    また、副業として「山信證券」の銭屋半兵衛と称して、株の取引をして、お小遣いを稼いでいるのである。

    こういう履歴をみると本当に「お金が好きなんだなー」と思う。子供の頃のタバコ屋で「ハイライトは80円」から始まって、鑑定評価では数千億円の評価額までも付けたことがある。
    お金は、古来より人をひきつけ、相場・市場には魔物が多く棲んでいるといわれてきた。
    私は、人を蹴落としてまでお金が欲しいとは思わないが、せめてお金のことで「夫婦喧嘩をしない程度」のお金、お金のためにあくせくしない程度のお金は欲しいと思っている。子供の頃両親は、酒とお金のことで毎日毎夜喧嘩をしていたからだ。

    女房から「あなたはお金に細かい」と言われることがあるが、この性分は専門領域が「いくら」の世界であり、人生40年かかって培ったものであり、そう簡単には手放せないものである。
    私は決して「ケチ」や「しみったれ」ではない。ただ、自分の人生・時間を削って対価として得たものを粗末に扱うのが嫌いなだけである。

    ある鉄道会社のオーナーや、ナントカドアの社長も、いつの間にか「金の亡者」になってしまったのではないだろうか?
    日本でも、明治の起業家たちはビジネスで成功すると「学校」を設立している。元来、そこでは金のもうけ方を勉強していたのではなく、正しいお金の使い方を勉強していたはずである。

    そろそろ子供にも「ファイナンシャルリテラシー」、すなわち、お金に関する教育を始めようと思う。それは、お金の尊さを学ばせ、いかに稼ぐのが大変なのかを教えることだと思う。


    金はないより、少しあった方がいい。でもそれだけではない。

    未分類 | 01:29:39| Trackback(0)| Comments(0)
    タバコ屋の店番
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    携帯で写す清水港。やっぱりデジカメが欲しい。

    私の記憶が完全にあるのは3,4歳の頃、生まれた家から、製材工場のとおりを百メートルほど離れた家に引越した二軒目の借家からである。元、鉄工場場を改造した家であり、表に鉄の扉と車庫(工場)があり、とにかく変な間取りの家であった。特に台所の隣に風呂があり、ほぼ一体化していた。

    でも、この頃が、親父が一番頑張っていた頃だと思う。仕事に対してもやる気があり、清水に「丸井」ができたこともあり、二段ベッド、キッチンテーブルを買い求めていた。車の免許を取得したのもこの頃だろう。昔は柱を肩に担ぎ自転車こいでたもんな。
    母も、車庫を改造して、給食用の木箱作りの内職を始め、その仕事をやめた後も、塗料会社に勤務するようになった。

    日本全体が高度成長期で、「バイタリティー」という言葉があり、みな生き生きしていたと思う。スバルにのって助けてくれた勝次さん、車で魚の行商の茂さんが登場し始めるのはこの頃からのことである(ああ勝次さん、3人衆など過去のブログも読み返してくださいね)。

    まだ、「貧乏」という言葉が珍しくもなく、電話も無い家(呼び出し)なども珍しくなかった。この家には実際に庭にさくらの木が植えてあったため、よく「長屋の花見」なども行われていた。母の作ったお手製の茶碗蒸し目当てに花見に訪れるものもいた。

    この頃、よく3つ上の兄と一緒に風呂に入り、「あいうえお」や「足し算」「引き算」を教えてもらった。3つくらい上だと3年下の学年の学習はよくこなれており、教えるのにちょうど適しているのかもしれない。だから、保育園にもぐりで入園する時には、簡単な算数はできた。(それだから、今、自分の娘の計算学習の進捗度をみると歯がゆくてならない。)

    特段この頃は仲のよい友達もいなかったため、遊び相手はネコの「ピー子」とか近所のおばさんたちである。特に家の前がタバコ屋だったからその店先で、ネコをいじり、店先で昼寝をして過ごしていたと思う。
    それから少し進歩すると、タバコ屋の中で店番をして遊んでいた。店番をしていたぐらいであるからであるから、簡単な計算はできた。
    店先で、お客さんがハイライト二つといえば「ハイライトは一つ80円、二つで160円、お金が200円だから、おつりは40円でーす」といえたと記憶している。昔は今より、賢かったのである。

    東京の子供が山手線の駅を順番に覚えるように、当然、ケースのタバコの銘柄も暗記しており、かわったところでは、「ハイライトデラックス」などが印象に残っている。昭和43年当時、人気のタバコは、ハイライト、わかば、しんせい、いこい、ピースなどである。そういえば、親父も昔はハイライトだった。

    タバコ屋門前の小僧。未だ一度もタバコを吸ったことがない。
     


    未分類 | 01:53:47| Trackback(0)| Comments(2)
    梅干と母さん
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    うちの母(S11年生まれ)は、この時期忙しい。まだ現役バリバリで朝から晩まで働いているし、その上、らっきょうや梅干を漬ける作業が加わるからだ。毎年恒例の行事である。

    日曜日、実家に帰り、土曜日に梅干を漬け込む作業を終えた母さんと話をした。
    母さん梅干漬ける作業もあと10回位かなー」とつぶやいたら、母さんは「もう10回も漬けれるわけないだろー」と言っていた。それは、母さんが10年以内にこの世とオサラバするか、寝込んだりして実質的に動けなくなることを意味している。
    「そんなら、うちでは漬けれないから沢山漬けといてよ、母さんがいなくなっても食べられるようにさー、娘も母さんの梅干だとごはん食べるよー」といったら、「そんなことはわかっているさ」といっていた。

    今年は15キログラム漬けたそうだ。一般の家庭では多いと思う。うちや親戚の分もまとめて漬けるからだ。「死んだら食えなくなるから作り方を書いてくれよ」といえば「面倒だ」のひとこと。でもそこは何気なく聞き出した。

    「手前味噌」という言葉があるように、梅干にも家それぞれの漬け方がある。うちのは、以下の通り。

    今年は6月11日に15キロの南高梅を買い、ヘタをすべてとり熟れ具合により水に漬ける。きれいに水気をふき取り、梅1キロに対して天然塩180グラム、(マックス200グラム)の割合でかめに入れる、塩にはこだわる。数日後、2回に分けて紫蘇を洗い、干し、すり鉢に紫蘇を入れ、塩、梅酢を少々入れながらもむ。最初は灰汁が出るからそれは捨てる(このあたりは昔やらされたから熟知)。色が鮮やかになったらかめに入れる。土用の頃まで待ち、2回干す。紫蘇を大目に入れるのが「のぶ家流」。
    でも化学の実験ではない。当初の梅の量が15キロだから180グラムの塩でいいが、これが5キロの梅だとすれば塩の加減はやってみなければわからないのだ。

    でも心配することなかれ。「私が作れなくなっても当面食べていけるようにこの数年間大目に作って熟成させている」とのこと。
    本人は10年前位前から準備していたらしい。各年ごとにかめがあり製造年度がかめに書いてある。「申(さる)年の梅はいい」という縁起を担ぎ、その年の分は大量に仕込んだとの事。私の心配事など杞憂なのであった。
    うちでは、分けてもらっていた梅干を我が家で1年熟成させて食べていたが、もっと熟成させていたものがあったとは…

    「若貴兄弟は跡目争いでもめているけど、私の残せるものはこんなものだよ、修と仲良く分けてたべるがいいさ」とのこと。もう何も言えなかった。
    「来年はお前も自分でやってみるがいいさー」だって。来年はどぶに捨てたつもりで5キロぐらいやってみようかな。へたくそと言われるのはわかっているが…

       梅雨とは上手く言ったものだ。すっぱくなりましたか?

    未分類 | 02:19:51| Trackback(0)| Comments(1)
    男の顔
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    いずれの写真も同一人物である。

    先日実家に帰って所持品を整理していたら、証明写真が沢山出てきた。そのうち9枚をランダムに並べてみた。
    振り出しは左上、現役時代の大学受験用(1982)の写真である。その隣は大学5年生(1987)でひげを生やしている。あがりは左下、サラリーマン時代(1996)の写真である。オタク顔から隣のひげの写真になるのに5年、それからサラリーマンの写真になるのに9年。
    目を隠しているのでわかりにくいと思うが、メガネをしたりコンタクトをしたり、皮ジャンを着たり、スーツを着たりと千差万別である、写真はまだまだ沢山ある。
    試験を受けたり、免許やパスポートを取得するために証明写真は結構撮っている。スーツ姿はめんどくさいから何度でも使っていたりする。プロフィールの写真を含めて10枚。

    この10枚の写真から、今の私の顔を想像するのもまた難解である。多分、わからないであろう。左上の頃と比較しても、体重は20キロ増えており、髪は丸刈りに近く、色が浅黒く、とても金融マンとは思えない格好をしているからだ。でも、案外、今の顔は気にいっている。妻が許せば、髪を染め、もう一段短くできれば…

    松山某とういう歌手がいる。売れ始めた頃も髪は薄かったけど今はもうスキンヘッド。20年もたてば男の顔などわからなくなる。
    交番に行くと、指名手配者の写真が張り出されているが、素人には何の役にも立たない。昔、丸岡某と言う長髪の過激派が、職質で逮捕された時、彼はみごとに禿げていた。
    私は、新婚旅行のときオーストリアの空港で、警官(軍人)に連行されてしまった。顔がインターポールの写真から過激派かマル暴とみられたのか…

    男の顔は、時に変化する。惨めななときや、疲れているとき、浮腫んでいるときなどなど。惨めなときの写真を撮っておくとよくわかる。証明写真を時々撮ればいい。自分の状況がその一葉から把握できるかもしれない。

     「人形は顔が命」。男の顔はその人生の状況を映し出す




    未分類 | 23:22:26| Trackback(0)| Comments(1)
    一週間の棚卸し⑥
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    画面に華と文章に力がないときは「さくら」ちゃんで…(昨日撮影)

    <胆石騒動>
    「腹」も痛かったが「懐」も痛かった。2日間の治療代約8,500円、最終的にどこから出すんだろうか?開復していたらどうなることかと思った。でも、うちのかみさんは、いざというときは肝が据わってるね。流石、勝負師の娘だね。社内結婚でやめるとき、「のぶちゃんはいいから、お前が残れよー、パートでも働きに来てよー」といわれた剛の者。

    <愛宕山の2日間>
    気楽に過ごすことができました。12&12も新調しました。日中友好交渉も無事に終わりました。病院メッセージも初めて体験しました。また秋にどこかでないかなー。

    <来週は仕事>
    現時点では行く気でいるがまだわからない。やだねーまったく。多分、行っても「のぶシフト」がしかれていて仕事はないね。でも、ファイナンシャルのレジュメ作らなきゃならんだろうな。これも「のぶシフト」で新人に割り振られてればいいけど、こんなうまい話はないよね。でも気分がのらなきゃいかないよ!!

    <自転車>
    2週間ぶりに自転車にのる。なか2週間空くとちょっと身体に違和感が出てくる。あと、空気圧が低く、パンクしないかとハラハラしながら乗りました。シューズも専用のではないと怖いし、なかなか生意気な乗り物です。

    <その他>
    今週は、あまり怒ることもせず穏やかな気持ちで生活できたと思う。心療内科はなかなかなの人気で、このごろ患者さんが増えてきている傾向にある。その分またされるが、それだけ、精神が病んでいる人も増えていることも背景にあるだろう。

    <父の日>
    何かと母の日と比べ影の薄い父の日であるが、プレゼントはウイルキンソン1ケース分の代金と娘の力のないマッサージ。
    夕食は、のぶ家恒例、ホットプレートでの「野菜炒め?」であった。

            勤労意欲が湧かない一週間、さて来週は。

    未分類 | 02:08:32| Trackback(0)| Comments(0)
    親父の言い訳
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    サッポロビールイメージガール小林恵美 サントリー、キリンは廃止。

    兄弟がまだ小学生の頃。
    親父は飲みに行きたくて行きたくてウズウズしていた。後年は家で飲むようになったのだが、この頃はまだ威勢がよくて…

    早い夕食を終えると「のぶが日本の歴史の本が欲しいんだって」とか「今日は修が、ラジコンの本が欲しいんだって」といって母さんにいって街の本屋まで、兄弟どちらかがお供してタクシーで出かける。
    でも、それは酒飲みの口実、本当は自分の喉を潤したかっただけだのだ。私たちはダシかつまみであったのである。

    本を買ってもらうと、行き着くところは、「◎の字」10人も入れば一杯になる居酒屋。そこにはすすけたビールのキャーんペーンガールのポスターが張ってあった。私の場合、ジュースと砂肝3本塩で。親父はビール。
    そこでは親父、活ちゃんは人気者である。誰かが「活ちゃん、今年の高校野球はどこが強いのー」、「東海のどちらかだな、俺は、静商の野球が好きだけどな」なんて薀蓄をたれる。
    そして、また飲み屋の奥さんが「兄さんは空手に無線、弟さんは本当に本が好きだねー、将来は兄弟そろって東高だねー」、「それほどじゃーないよ」なんて。

    親父はご満悦である。自分を表現できる場がこの飲み屋なのである。煽てられて誉められて酒が飲めれば最高であろう。ビールを二本飲み、母さんへの茹でた蟹などを土産に、払いはつけで、帰りはタクシー、「袖師の寿倉庫55号のところまで」なんて…

    でもこんな生活が長続きするはずはない。不景気になれば出かけられないし、夫婦喧嘩も激化する。悲しいかなアル中は実にこういうタイプが多い。

             自己表現が下手で、しかもその場が居酒屋の人

    未分類 | 10:58:22| Trackback(0)| Comments(1)
    解体新書
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    「解体新書」:杉田玄白ら訳 安永3年(1774)
    本書の訳者は、 玄白の他に前野良沢・中川淳庵・石川玄常・桂川甫周らであるが、 刊本に良沢の名は見られない。 本書刊行のいきさつについては、 玄白が晩年に記した 『蘭学事始』 に詳しく述べられている。 それによると、 明和8年 (1771) 3月、 江戸千住骨が原で行われた刑死人の解剖を見た玄白・良沢らが、 ドイツ人クルムス原著のオランダ語訳医書 『ターヘル・アナトミア』 と比較してその正確さに驚き、 同書の翻訳を志して3年半の言語に絶する辛苦ののち完成したのが本書で、 『解体新書』 と名づけて出版したものである。 その内容は、 第1冊が序図篇で内臓諸器官が図示され、 第2~4冊が解説篇で全文漢文で記述されている。
      本書は、 日本の医学に対して多大な貢献をしただけではなく、 広く蘭学の勃興を促すこととなった。 その意味で記念とすべき古典的翻訳書である。

    昨日、[男の自画像]の原稿を書いているときから、お腹、特にその右側が痛くなりました。私がお腹を痛くするパターンは、お腹にウンチが沢山たまり、それが外に出て行かないときによくいたくなります。そんなときは、大便をして、「正露丸」を飲めばしばらくすれば痛みは治まるのですが、昨日のはいつもと違うパターンでした。トイレに行っても痛みは治まりません。

    そして、時間が経過するに従い痛みは増幅し、12時をまわって、ついにかみさんにSOSを出して、市内の当番医のところへ出かけました。私は「石」でもたまったのかなーと思い、「エコー」の診察を待っていたのですが、あいにくエコー検査はできず、「痛み止め」と称する点滴を1本されました。この点滴の効果たるや、すごいものいで、痛みが和らぐどころか、いびきをかいて寝てしまうほどの威力がありました。点滴が終わった後は、意識は薄らぎ、眠くなるやで、一人で立つのがやっとでした。何か、大量のアルコールを飲んでしまったような気がしました。

    当然、家に帰り、泥のように寝ました。次の日に、血液検査やエコーを行うとの事で寝れるだけ寝ました。よく寝た、ホント。

    さて、今日の天気は雨。検査結果は、結論からいうと「異常は何もなし」、健康そのもの。「石」や「腫瘍」はできていませんでした。
    血液検査の結果は笑えました。健康そのものなのです。γGTP飲んでる頃が1,177であったのが38となり、酒を飲まないと言うことはどんなに健康なことか身にしみて感じました。
    肝臓君は物言わぬ臓器、わたしの酒で随分といじめられていたのでしょう。「のぶちゃん痛いよー、やりすぎだよー」と小さな声で言っていたと思いますが、私の欲望の前には黙殺されていたのです。もう人生も後半戦、それぞれの部位と仲良くやっていかねばなりません。

      こんど会社の健康診断でγGTPの数値で賭けをしよう!

    未分類 | 18:59:53| Trackback(0)| Comments(1)
    男の自画像
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    萬 鉄五郎「雲のある自画像」

    この作品を描いたのは、萬 鉄五郎(よろず てつごろう)といい、大正時代に活躍した洋画の巨匠である。
    私の絵は子供の絵より下手なので、絵の構図・技法に関してはコメントできない。しかし、昨年アルコール専門病院から退院してなにも考えられないときにホームページで出会った2枚の自画像はその後を引いていた。なんとなく、この絵ともう一枚電球の下で描かれたという
    「赤い目の自画像」についは、その絵を描いているときの「精神状態」が素人目にもわかるものであろう。

    ある方がこの作者萬鉄五郎の性格として、凝り性、執着気質、親切、仕事熱心、強い義務責任感、社交的、善良、親切…とあげている。
    今の世の中であれば、これらすべてを兼ね備えていれば、他人から評価される前に、倒れてしまうのではないだろうか。

    そう、後に彼はこの精神を病むことになる。明治18年生まれで昭和2年に没している。42歳。ちょうど私と同じ年代なのである。
    なにか、病院服(パジャマ)きて、ぼーとしている彼の姿は、私たち酒飲みが「もうどうでもいいや」「何もかもめんどくさい」と感じている、考えていること、感じていることが頭の上の「赤い雲」なのであろうか?
    以前、青木繁の自画像をここに掲載した。それは高慢な態度で「俺の才能がお前たちに判るわけがない」とした自画像と対比できるものではないだろうか?それは、酒を飲み、有頂天に起っている私たちの姿ではないだろうか。

    これらの絵は、対極にある。私たちも対極に立ったことがある。

    今の私の精神状態を表すならば、間違いなく「雲のある自画像」か「赤い目の自画像」である。精神状態は健康的とは言いがたい、ウツで集中力がなくて、それでいて不眠が続いているような…

        あの赤い雲は、何を意味しているのだろうか?


    未分類 | 21:35:23| Trackback(1)| Comments(1)
    最近のこネタ
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    最近、評判のよい「さくら」ちゃん。ちょっと太めです。

    <「さくら」から学んだこと>
    二郎さんのとこの意見交換の広場でも、かわいいと書き込みされている拙宅のアイドル「さくら」。
    普通の一匹750円のハムスターです。
    でも、人様から子供やペットのことを褒められらり、くすぐられたりすれば、親はうれしいものです。最初は、子供が飼いたいといっていたのですが、親ばかで、最近私も夢中になっています。
    最初は、生き物を飼うべきか悩みました。アパートだし、においがするかもしれないし、いつの日にか死んでしまうしと考えはじめました。それでも、感受性の強い頃の子供に動物をあてがい、それを愛でる、死を悼む気持ちを育むにはよい機会と飼うことを決断しました。我が家では、娘に最小限のテレビゲームしか与えていません。友達はもっているという言葉にも頑固に耳を貸しません。
    青少年が傷害・殺人事件を頻繁に起こす今日。テレビゲームなら、飽きたら、結末が気に入らなければスイッチを入れ直せばまた、何事もなかったように最初からできますが、生き物ならば面倒を最初から最後まで見なければならないという義務が発生します。事件を起こすような子供たちは、そのような視点が欠如していることが容易に推定されます。
    ゲームのなかで人を殴ってもなにも進歩しません。まだ、外にでて殴られるほうが人生にとっては貴重な体験だと思います。殴られたら痛い、血が出る、反対に殴ったら、事件にもなりえます。
    今回、ハムスターを飼うことで娘も多くのことを学んだと思います。


    <整体ぼきぼき>
    私は、もう20年来、腰痛、首の張りなどで悩んでいます。軽いストレッチなども定期的にやり、ケアしているつもりですが、長旅などすると、腰に来ます。
    先日は、たまらなくなり整体に行きました。若い整体師に腰、背中を足で踏まれ、最後にひねられ「ぼきぼき」とされるタイプです。飲んでる頃、飲み代の4,000円は、「ま、いいか」で、その感覚で鍼灸にも、よく通っていました。でも、飲まなくなった今、経済レベルは若干低くなったものの、「4,000円は高いの~」と二の足を踏んでいました。飲んでた頃は、金銭感覚にに厳しい私でさえ、だらしなくなっていたのです。酒を早くやめてよかったです。経済的にも健康のためにも。

    <株主総会>
    毎年3月決算の企業は、6月の終わり頃、株主総会(セレモニー)が開催されます。そして、配当金が払われる仕組みになっています。私は、株主となり経営陣と正々堂々と経営について語り合いたいと思いますが、金も暇もありません。
    サラリーマンの私も、いつかは自分の会社を設立し、商法にのっとり、代表取締役として株主総会を開催したいと思います。勿論かみさんが監査役ですが・・・。


    「人の行く 裏に道あり 花の山」、 「働き一両 考え五両」
                                                山信證券 銭屋半兵衛



    未分類 | 20:35:24| Trackback(0)| Comments(2)
    ルーツ
    では、私の家族を紹介しよう。
    私は、昭和38年、父:活平(S7年)、母:弘子(S11年)の二男として旧清水市の病院において生まれた。ちなみに兄:修(仮名:S36年)がいる。

    父は島田市出身。9人兄弟姉妹の長男、江戸の御代から続く大工の家に生まれた。父は商業学校を卒業し、地元の大手百貨店に就職が内定していたようだが、「家業を継げ!」とのことで大工の道に進んだようだ。元来、図画・工作などに長けた人で、大工としての腕は確かなものがあった。しかし、商業学校を出たわりには、お世辞にも商売はうまくなかった。

    また、名前に「平」の字がつくのが慣わしであった。活平の親父は芳平、さかのぼると◎平、○平、△平となる。昭和36年、兄が生まれるにあたっても、伝統に倣うかという話になったらしいが、時代も時代だしと特に母が反対し、地元大井神社にいくつかご提示いただき、その中から父母が選んだらしい。「のぶ」もそれに倣った。私としては、もっと奇抜な名前の方がよいのだが、平凡な名前をいただいた。

    さて、「のぶ」のご先祖様に下戸はいるわけはない。大工の家だから、「やれ地鎮祭だ、建て前(舞)だー」と、酒がつきまとう。雨が降ったら休み、寒いからといっては休み、盆暮れ朝から酒を飲むのはめずらしいことではなかった。それが当たり前の世界だと思っていても、子供心に父親が朝から酒を飲むことに対して、正直いい気分ではなかった。

    これとは反対に、母は、豊橋市において4人兄弟姉妹の末娘として生まれた。祖父(河辺一二三:ひふみ)は、機械メーカーの原材料の仕入れ・経理を担当。当時会社勤務のホワイトカラーであったため、丸い縁の眼鏡に、夏には麻の背広を着るような紳士のような方だったと言われている。また、「相当の下戸」であったという。
    祖母(駒)のことは母からはあまり多くのことは語られない。ただ、生活が苦しかったため、「修学旅行にいかせられる余裕はない」と言われ、それを断念したことは聞いている。次兄は、其の頃から遊び歩いていたのである。
    長兄(邦博)は、年が離れており、文武両道の優等生で通信簿が全て「甲」であったという。しかし、軍隊に自ら志願して、航空隊の飛行兵として命を国に捧げた。次兄(正博)は、まったくの劣等生(笑)。戦後、家屋敷、家財道具まですべて売り払ってしまった放蕩者であった(現在は、普通の伯父さん)。
    姉(幸子)は若い頃から病弱で、近年、病気でなくなった。でも、なかのよい兄弟姉妹であったが、母の人生は苦労の連続といっていい。

    小学校の時に、父がなくなり、中学3年の時には母も亡くなり、兄弟3人のみが残されたが、頼りとなるはずの次兄が…。母は、幼き頃から珠算などが得意であったため、中学を卒業すると、靴屋やお菓子屋の店員などをやっていたが、器用であったため、美容師を目指し、美容学校へ通い美容師の資格を得、住み込みの美容院で働いたようだ。筋もよかったため師匠にもかわいがられたそうだが、同僚たちとの軋轢もあり、その道を断念した。やめた後も、姉幸子の髪を結うこともあったという。義伯父曰く、「弘子は、とてもつらい時代のことだから、その頃のことはあまり多くは語らないだろう」とのことである。

    そして、何かの紹介で製材会社の事務員をしていたそうだ。その豊橋の製材工場に、活平が仕事をしに来たのがきっかけで一緒になったというところだろうか。

          わが家は、「華麗なる一族」ではない。

    未分類 | 21:17:57| Trackback(0)| Comments(2)
    愛宕山日記を二日分
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    武運の神様と思いきや意外にも「商売の神様」としての武田神社

    <はじめに>
    4月に最初に参加した甲府市愛宕山で行われた、外泊形式の山梨昭和グループのOSMで打ち負かされ、「のぶ」から「のぶちゃま」に改名した経緯がある愛宕山。再挑戦すべく、6月11、12日の山梨地区の催しに再度、外泊することとなった。

    <武田神社>
    まず、必勝を祈願するためここに参拝し、珍しく、おみくじ200円を引くと、「32番小吉 商売繁盛『福よせ熊手』」を当てた。つまり、山信證券:銭屋半兵衛にとって最高のものを引いたことになる。幸先もいい、相場の上昇も期待できるぜ!

    <愛宕山首脳会談>
    長野の首領「ひいらぎ」師匠と、スルガの若殿「のぶちゃま」が同所にて、「ビッグブック」を読みあわせをするという儀式が行われ、無事とり行われた。これが今回のメインテーマである。
    師匠の「日々雑記(6/12)」にその思いが伝わる。田中角栄と周恩来の会談のようだったとの評価あり。

    <本 番>
    登壇者の発言に臆することなく、その真意を探り、人生の糧としようという前向きの態度で臨んだ。そして今まで借り物で済ませていた「12のステップと12の伝統」を1,800円にて新調する。ごはんもおかわりしたよー。

    <ほったらかしの湯>
    甲府の土建屋さんが温泉を掘り当てたのか、郊外の高台に露天風呂があり、夕食後、仲間で連れ立って出かけた。入湯料500円、コインロッカーは返却なしの100円、建物、駐車場はそのなのとおり。甲州商人の性根をみた。でも景色はよい!

    <清里・野辺山駅にて>
    午後からスケジュールがあるにもかかわらず、同所まで遠出した。運転手さんは気の毒であった。

    <病院メッセージ>
    静岡県の東部地域にある某精神病院にて、AAのミーティングを持ち込む、病院メッセーセージに初めて参加する。これで今回締めるところが、この合宿の成果が窺える(としておこう)。

    <おわりに>
    企業経営者に対しもの申す。企業は株主が完全に所有できるとおもったら大間違い。お客様、従業員などの各ステークホルダーによって支えられているのである。その根幹は「人の和」である。

    「人は城 人は石垣 人は堀  情けは見方 仇は敵なり」



    未分類 | 17:34:09| Trackback(0)| Comments(1)
    一週間の棚卸し⑤
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                青木 繁「自画像」明治37年大原美術館蔵

    <何で俺のことがわからんのだ!>
    正直、先週、先々週と会社に行ったが、非常につまらないしごとばかりさせられて辟易していた。何で俺がそんな仕事しなきゃーならんのだー」とか「いちいちうるさいんだよ。素人は引っ込んでろ」といった「高慢な感情」がこみ上げていたから、仕事が面白いわけがない。AAでは、この「高慢な心」は特に問題視する。自己中心的にも通じるし、怒りにも通じる。
    サラリーマン生活をやっていれば、面白い仕事ばかり回ってくる方がおかしいのだが、やっぱり面白くない。ホント上司の前ではいいカッコしている管理職をみていると、「それは俺がやったしごとだろー」、「失敗ばっかり、俺のせいにするな」と言う気持ちがマグマのように湧いてくる。

    <会社はお休み>
    ウツと睡眠障害で体調が悪く、さらに機嫌も悪かったから、会社を休んだ日、早退した日があった。会社を休めば怒られるのは当たり前。でも、休みたかった。AA的に言えば「神の保護と配慮の下」、自分で意思決定した。
    人が働いている時分に遊んでいると実に楽しい。
    家の片付けさえ楽しいのである。長く生活していると実にいらないものがたまっている(金は貯まらないのに!!!)。でも、自然災害や所有者の死後、そのようなものはほとんどゴミとなってしまう。かみさんも、女性にしては物を持っていないのだが、私から見るとまだ甘い。「物をもつているのは生きている証拠」といわれたが、じゃあ「ホームレスの人の身軽さは何ぞや」思ったが言うのはやめた。価値観が違うのだ。無理に押し付けても将来ゆがみが出る。徐々に懐柔していくしかない。人間死ねばごみになる。

    <おぼろげな夢>
    実際、キャンピングカーで日本をぶらぶら旅をしている人がいる。季節によって自分の行きたいところに行き、時に立ち止まり、そこでしか味わえないものを食べ、温泉にでも浸かっている。金か時間か、その両方が必要なのかも知れないが実に愉快である。
    私には500万円以上するキャンピングカーを買うことも運転することもできないのだが、ペーパードライバーを脱し、バンタイプの自動車をDIYして、オリジナルの車を作って地方を放浪したい。もしかすると、その準備は、転職をも考えることにもなるのだが60歳とは言わず、その前に実現させたい。愉快な生活を夢見てないで、なんでこのような社会を行きぬくことができようか!

           愉快な生活、夢・希望があればこそ!

    未分類 | 07:51:15| Trackback(0)| Comments(0)
    ハムスターと回り車
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    我が家になじんできた「さくら」。一回り大きくなっている。


    わたしが、酒を断ち、純粋にウツで悩んでた頃、ひいらぎ師匠の掲示板で嘆いたことがある(9月の給料日)。要約すれば、
    「私はただのハムスターのようであり、回り車というサラリーマン生活を送っている。悲しいことかな、ぐるぐる回っていも、行き着く先は結局、同じとことろ、(中略)たまには休みたいと思いますが、なかなかそうはできません」
    要は「こんな生活でよいのだろうか」と言うものである。

    そのレスポンス(概要)として師匠は『地に落ちた死んだ小麦』の例を示し、「一見したところでは、その繰り返しには何の収穫も見出せないかもしれませんが、実はその毎日こそが『地に落ちた死んだ小麦』であります。それは確かに犠牲ではありますが、だからこそ豊かに実を結ぶ一粒であります。他の人に命を与える一粒です」と示してくれました(師匠はもう覚えてないでしょうね)

    それから私は考えました。「そうはいわれてもなー」と言う気持ちも正直ありましたが、家には知らず知らのうちに成長している娘の姿がありました。「そうか、俺の給料袋でこの子はご飯を食べ、勉強をしているんだ」と気がつきました。爾来、「俺はただ回ってるんじゃないぞー、妻子を育て、人生考えながら回っているのだ」と思うようになりました。

    それから約1年。今日会社を休みました。疲れたからです。ウツの病気にとって長い人生の一日や二日休んでも大したことではないと割り切ることができました。そして今日一日、普段できない家のことをやりました。洗濯掛の工夫、園芸などなど。

    来週、学校で交通安全教室があるため、それで学校の近所の子供は自転車を提供することとなっています。娘は大きくなりました。私は、自転車を磨くのと同時に、サドルの位置を目一杯上に上げました。これ以上大きな子供用の自転車はありません。もう、次に買う自転車はママチャリです。

    その作業を行いつつ、最近飼い始めたハムスターのことを思いました。このハムスターだって少しずつ大きくなり、トイレの位置さえ覚えました。「小さなハムスターだってただ回り車を回っているのではない、ましてや私だって」という気持ちになりました。


             ただ回ってるんじゃない、考えてるんだー!

    未分類 | 14:25:18| Trackback(0)| Comments(1)
    子供の頃の思い出:3人衆
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    ナポレオンの載冠式(部分)ダヴィッド作
    <理髪店>
    上記作品は1804年、表記の名でルーブル美術館で保蔵ざれている、大変大きな絵画でその一部分である。
    私の育った清水にもこの冠を与えた英雄の名を冠した理髪店が今でもある。私が通っていた頃は先々代のオヤジ(じいさん)の頃の話である。当時は何故ここの名前が立派なのか不思議であった。
    当時、この理髪店、床は板張り、散髪台と洗面台の位置が離れており、シャンプーをするたびに両所を行き来する、難儀な理髪店であった。
    オヤジは頑固そのもの。店が暇になると「のぶ家」まで使いが来て「今、空いてますよー」の声がかかる。土曜の午後がおおむねその時間帯である。子供だから1時間もすれば飽きてしまう。
    TVの方を向いていれば、自分の作業のしやすいように無理やりお客の頭を強引に振り向かせるような人だった。また、母親が「前髪は揃えないで」との注文も聞かず、水平にカットしてしまう人だった。
    また、その時間必ず、子供にはつまらないキンカン提供「素人民謡名人戦」がテレビでつけられていて「すげー」つまらなく、辟易した。
    兄は置いてあった「少年サンデー」、「少年マガジン」とかをみて漫画少年になったが、私にはこの時間は拷問に近かった。

    <行商の魚売り「茂さん」>
    苗字不詳、この人は未だ時々会います。車での行商の魚売りであった。
    今でも時々あって、「のぶちゃん大きくなったねー」、「マグロを醤油なしで食べたのはびっくりしたよー」が口癖である。ちょと癖のある人で、見た目は、「ああ上野駅」の井沢八郎。パンチパーマが良く似合う人だった。
    小さい頃、この人の車に乗って市内をつれてもらって、よく遊んでもらっていた(その頃我が家には車はなかった)。
    ただ、この人が酒を飲むか否かは定かではない。

    <行商のしらす売りの「ばあさん」>
    このひとはうちの母さんに向かって「奥様今日はいいシラスがはいっています」という攻(口)撃の人だった。パートのおばさんをつかまえて「奥様」はないだろー。
    清水はマグロも有名だが、都会で言う「釜揚げシラス」を朝、籠を背負って売り歩く商売が成り立っていた。いまでこそ、これは結構の値段がするが昔は普通のおかず。シラスの中にアジやタイの稚魚が混ざっており、子供の頃、これを「当たり」と称していた。
    学生のとき上京して「シラスおろし」を注文したとき大根が多くてシラスが少ないのには驚いた。清水では、シラスのうえにお飾り程度に大根おろしが添えてあるのが普通なのである。
    値段も高い!、「びっくらこいたよー、びっくらこいちゃった!!」(清水弁)

    清水の町は、もう今は港町の面影はなく、スナック、クラブはこわくて(高そうで)に赤提灯でいつも飲んでいた。もうこれからも、スナックなどソブラエティーを通している限り行くことはないだろう。
    一度は入ってみたかった。

            清水は、寂れたのんびりとした町である

    未分類 | 08:32:24| Trackback(0)| Comments(3)
    ああ、勝次さん…
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    東京六大学春季リーグ戦早稲田大学優勝おめでとう

    「類は友を呼ぶ」、「呑み助には呑み助が…」の言葉を文字通り表した人がこのお方、勝次のおじさん(故人)。昭和30、40年代では全国どこでもみられた風景だと思うが、日曜日や仕事を終えると近くの駄菓子屋「まつや」の汚い軒先で、野球やソフトボールの話をつまみに、酒を酌み交わすのが私のご近所の慣わしであった

    件の人、苗字は伏せるがなかなか愉快な人であたった。当時、製材会社の経理の仕事をしていた。無類の酒好きである。当時、「てんとう虫」と呼ばれたスバルに乗っていた。

    小さい頃は、その性格は肌に合わなかったが、徐々に、その心根の優しさが理解できるようになった。私が3歳位の頃だったか、私が未舗装の道路で転んで泣いていたとき、若干呑んでいた勝次さんは血相を変え走ってきて、私を抱きかかえ、「のぶが転んで額を切っている!」と手当てをしてくれた。その時、頭から血がぽたぽたと落ちていたのは今でも記憶しているほどだった。
    こんな感じのオヤジ、とてもいい人だー。


    この無類の酒好き、医者から酒を止められていたが、この人は酒をやめることは無く、逆に「ビールを飲むと小便がでて、悪いものが排泄されるんだ!」が口癖だった。
    このおじさん、家で飲ませてはもらえないのか、ときどき貧乏な我が家に立ち寄り、酒の用意をさせていた。つまみは主に6Pチーズ、酒は何でもよかったがビールが好きだったようだ。調子が上がってくると、箸と茶碗で三波春夫の「チャンチキおけさ」を前奏つきでやり始めるのであった。
    娘一人、息子3人の父親であったが、自分がその昔、結核で闘病生活を送ったため、反対にその教育方針は自由奔放。この息子さんの一人は辣腕弁護士で現在活躍中である。結構、いい加減な人だった(冬でも扇風機が堂々と出ていた)。

    息子の運動会の父兄のダンスの時、踊りも知らぬのに飛び入り出場し、お尻をふりふりスケベそうな踊りをみんなに披露し、拍手喝さいを浴びたのは思い出である。後で聞いた話だが、その時は素面であったから驚いた、みんな一杯入っているなと思っていたからだ。

    とても人情味のある人で、貧乏なうちに金を貸してもくれた。また私が大学に合格にしたとき「まず、俺に連絡しろよ」といっていた。それが、どこからか私が写真の大学ではない大学に合格したことを耳にし、朝早くに電話をかけてきて「何で俺に一番に知らせなかったんだー、立派な大学じゃないかー」と息巻いていた。
    今考えれば、アル中であったがとても「いい人」であった。


          酒飲みの気持ちは酒飲みにしか分からない


    未分類 | 01:23:28| Trackback(0)| Comments(2)
    コンプレックス
    わたしは、家庭の経済的問題のほか、もう一つ大きなコンプレックスを抱えていた。それは、「身体」である。同じ家庭、同じものを食べて育った兄は、空手の有段者。何故だろう。

    <中学時>
    小さい頃から、読書好きで、友達もなく、外で運動をすることがなく、色白で「もやしっ子」と育った私は、通信簿では体育が全科目の中で最低。中学1年の体力測定の時は、先生から「のぶの握力は20キロいかず女並みだ」とか3年の体育の先生から「のぶは家で肉を食べてさせてもらっているのか」と屈辱的な言葉を浴びせられた。20~30年前の体育の先生はそんな程度の人権意識しかなかった。へらへら笑っていたがこの一言は、コンプレックスを一層強いものとした。強制的な部活動は「吹奏楽部」でお茶を濁した。

    <高校時>
    中学に入学したとき身長は136センチ、幸い身長は高校には入る頃170センチ到達目前となり、当時の男子平均を越えたが、依然体重は増えず、卒業するとき47,8キロだったと記憶している。まさに「もやしである」。でも、高校の時は、「いかにして学校で一番となり早稲田大学に入るか」が課題であったから、強制的な部活動は、時間的負担のない英語部に所属してお茶を濁した。
    まだ、頭を鍛えることが先決で、肉体を鍛える余裕などなかった。

    <浪人・ラーメン屋で働く>
    ほぼ模擬テストで、早稲田に入れる見通しがついた私は、予備校には経済的な面からもいかず、ラーメン屋で働きながら、肉体的な改造にも取り組んだ。嫌いな牛乳をのみ、アルバイト代で買ったプロテインをのみ、英単語を覚える傍ら、スクワット、腕立て伏せをやり、1年間で体重を50キロ台に到達した。

    <大学時代>
    定食屋では必ず大盛りをたんでいたが、当面、体重は53キロを超えることはなかった。でも、日焼けをしたりして、就職に備えやっと55キロに触れる日も出始めた。

    <アル中前後>
    それから、徐々にウエイトがつく体質に変わり、体重は62キロ位となり、やっと人並みとなった。酒を飲みだしてから60キロ台に乗った感がある。しかし、昨年、ウツとアルコールで、食べ物を吐く日々が一月以上続き、体重はみるみる減少し、55キロ前後となった。あまりの減少に点滴もうった。アル専に入院し、内科的に回復してもその水準であった。

    <その後>
    退院時56キロが1年経ち、いまや70キロ目前。大体1ヵ月1キロ増のペースである。誰からも「のぶちゃん太った?」といわれるようになった。特に、自転車のロード(トレーニング)とご飯のお代わりとジンジャエールが効いていると思うこの前、整体に行ったときには「お兄さん、バランスの取れたいい身体してますねー、学生時代は何かスポーツでもやっていたの?」といわれるようになった。アル中時代に履いていたスーツのズボンはもう、太ももで入らなくなってしまったので、先日すべて処分した。現在、会社はカジュアルを推奨し、ズボンはユニクロとポロシャツでOK。

    三島由紀夫も死の目前、肉体改造を行った。かれも体育が苦手だった。天才も肉体にはコンプレックスを抱いていたのだ。
    現在の目標はお腹の贅肉なしで73キロ。「学生時代はラグビーやってました」の大ウソを信じさせたい。


              見かけだけでも元気なオヤジでいたい

    未分類 | 02:31:17| Trackback(0)| Comments(1)
    友くんの思い出
    以前、内職の思い出の話で佐藤孝ゆきちゃんが登場したが、今日は友くんについて書いてみよう。

    結末から書くと、友くんは小学校の時、家の近所で大型トラックに轢かれ命を落としている。したがって、付き合っていた期間は短い。でも仲良しだった。

    孝ゆきちゃんちが、貧乏の代表格なら、澤野友のりくんちは豪農の代表格であった。
    当時、清水といえば、みかんとお茶の栽培が造船業とが産業の双璧であった。友くんちは、お茶を栽培し、さらに製茶工場まで有し、みかんもやっていた。季節になると、東北か北陸の方から季節労働者がやってきて、寝泊りしながら作業をするほどの規模を誇っていた。農家だから、大家族で、友くんには野球が上手い兄がおり、彼は次男坊であった。彼は10月末の生まれで、僕は11月11日、10日ほどの生まれの差しかないのに、小学校に入った時には彼と僕は、関取と序の口位の体格さがあった。
    彼は運動能力に優れていたが、算数が出来なかった。
    当時、私はもやしの算数小僧だったので、毎朝になると彼のうちから、「今日の持ち物と宿題の答えを教えて」と言うSOSの電話がかかり、いろいろと教えていた。でも、凸凹コンビで気のあう友達だった。
    彼のうちはお父さんも、おじいさんも、お兄さんも真面目な人だったから、彼も孝ゆきちゃんみたいに悪がきではなかった。

    体力的にけんかをしたら私が勝てるはずはない。でも一度だけ何か些細なことで大喧嘩をしたことがある。肉体的に、ではなく、無言の喧嘩を…。小学校の時の文集で他の仲間に書かれたぐらいのものだったから、相当、緊張感があるものだったと思う。誰もが負けるの僕だったと思っていたようだったのことだが、期待を裏切り、先に「こめんね」と言ったのは彼だった。意地と頑固さでは私の勝ち。もちろん、それからも仲良し。

    彼はサッカー少年団に入ったから、勉強せずに拍車がかかった。
    事故に遭ったのも、サッカーの練習に行く途中だった。もし彼が高校までサッカーを続けていれば、きっと全国制覇の夢をかなえられたと思う。
    私は勉強の道に進み、大学は商学部のほか文学部に合格した。先に合格した文学部に進学していたなら、出版社で持ち前の頑固さと意地の根競べとで、作家の原稿どりで活躍していたに違いない。

          頑固さと意地の根競べでは私が勝つ


    未分類 | 13:48:57| Trackback(0)| Comments(0)
    物事の考え方:再考
    昨日の原稿執筆で、自分の書いている文章の途中で、自分自身に矛盾点が浮かび、タイトルと結語が違う文章が出来てしまった。そして、今朝、「ああ、俺も41歳、人生の半分、いや3分の2を終えてしまった」と考えていた。そうしたら、傍らに娘の通う学校からのお便りが無造作に置いてあった。
    その話の内容は誰でも知っている、「コップ半分の水」、私たちにとっては「酒瓶の酒」の話であるが、後段部分の事例が気になったので、ここに掲載させていただいた。以下、引用させていただきます。

    もともと楽観的な性格に人は、何か問題にぶつかっても苦もなくプラス思考に転換できますが、悲観的な人にとってプラス思考は簡単ではありません。半分ぐらいジュースの入ったコップを見て、楽観主義者は「まだ半分残っている」と考えますが、悲観主義者は「もう半分しかない」と考えます。楽観的である方が、本人にとっても周囲の人にとっても幸せだと思います。
    腎臓透析治療を受けている人や糖尿病の人で、食事制限を辛いと嘆くより、まだこれだけ食べられ、これだけのことができると考えられる人は、気持ちが前向きになり、安心感を与えることができるでしょう。 (高見三明大司教)


    ある調査では、アル中の平均寿命は約52歳。自殺を図る者や実際、私など、半強制的に入院しなければ狂い死にしていたかもしれない。
    でも、入院して健康になった。それだけでも儲けもの。もう人生半分過ぎたとか10年しかないと考えるのではなく、「まだ10年もある」と考えたい。私は、ウツであるし、もともと、腎臓が弱い家系にあるので、人生設計のなかで60歳で、人工透析になることも覚悟している立派な悲観論者である。
    幸い、我が家では妻が楽観論者であるから救いであるかもしれない。これから前向きに物事を考え、若かった頃のように挑戦し続けたい。

         充実した日々を送れば、年齢など問題なし。

     追伸:日本代表あと一歩。清水エスパルス、ナビスコ杯決勝トーナメント出場決定!!



    未分類 | 07:45:51| Trackback(0)| Comments(2)
    ◎◎を人生のうちの半分を食べた
    私は、「あの時、◎◎を人生のうちの半分を食べた」という話し方をすることが度々あります。私がもう人生の半分分を食べたものは…

    <マツタケ>
    子供の頃、アパートの隣の住人の実家がマツタケの産地でありながら、当人たちがあまり好きではなくよく頂戴していました。
    土瓶蒸し、網焼きなどで食べていました。あるとき、近所の大工鈴木某がひょこり現れて、「活ちゃんち贅沢なもの食ってるなー」といってつまみ食いしていったのは今でも語り草です。

    <蜆しじみ
    小学校2、3年の頃、親父が酒の飲みすぎで黄疸にかかり、自宅療養で済んだものの、「肝臓には蜆が効く」ということで、味噌汁の具に毎日入っていました。子供からすれば蜆は食べるところがないから「また蜆かー」となるのです。
    今では高価な食材となり、これを毎日味噌汁の具にしていたら家計が厳しくなります。この頃、実家に帰ると、両親が私の身体を案じ、わざわざ買ってきてくれます。こういうのはうれしいですね。

    <筍とふき>
    これは、私が中高校生のとき、家が経済的に苦しく、家計を助けるために親父が山に入りとってきて食べるのですが…
    何せ毎日、筍とふきのにもので飽きるし、弁当のおかずまで筍では、ジジくさくていけません。
    今では旬の野菜としてありがたく頂戴いたします。

    <カレー>
    私は小さい頃から元々カレーは好物ではありませんでした。大学で上京したとき、一日二食で済ませるために、敢えて高くても栄養あるものをとカレーを毎度食べました。社会人になってからこれまで自発的にカレーを注文したことは未だありません。

    <かぼちゃ>
    これは昨年入院したときいやというほど出された食材です。元々好きではないので、病院で、「かぼちゃ」「かぼちゃ」「南瓜」とその表現を変えて出されるのが癪に障る。噂によると精神病棟の患者の畑作業で南瓜が栽培され、それが献立となるというのでした。
    妻子が好きなので、焼肉?の時には必ず出ますが、好きになれません。

    でも、よく考えたら、もう私も41歳。人生の半分を終えてます、特に食べ盛りを過ぎているのだから、おおよそなんでもかんでも半分以上食べたことになりますね。だとしたら、

        
       私は◎◎を人生の大部分の量を食べた。


    未分類 | 05:28:01| Trackback(1)| Comments(2)
    一週間の棚卸し④
    この一週間を振り返ってみましょう。

    <新宿オフ会>
    久しぶりの上京だし、日頃、バーチャルな世界でお会いしている人と、リアルなひと時を過ごせて大変楽しかったです。久しぶりに「笑い」ました。また、東京にて開催する際はご一報ください。出来る限り参加したいと思います。

    <東京六大学野球>
    早稲田大学が慶応を破り、完全優勝!
    私がスポーツ観戦(TV含む)するとごひいきが敗れると言うジンクスがあります。地元清水エスパルスの試合を見に行って勝った例がありません。高いお金を出して負け試合を見るのは辛いものです。件の早慶戦も私が観にいった試合は負け試合。
    でも、ビールの売り子嬢の誘惑に勝てたことはうれしかったです。なお、校歌を三番まで絶叫したため、モヤモヤはすっきりしました。振った右手も筋肉痛にはならず済みました。

    <早寝早起推進運動>
    ハムスターのような生活をしているひいらぎ師匠が「日々雑記」を書き込むと、携帯電話に連絡が入るように登録したところ、ある日、とんでもない時間にムーバーが作動しびっくりしました。
    師匠も遅くまで用事があり、各人の生活リズムはあると思いますが、私は早寝早起がベターです。

    <ハムスターのさくら>
    ハムスター用の混合雑穀を与えていますが、やはり好物は「ヒマワリの種」。好き嫌いは健康の元。少し甘やかすのはやめようかと思います。

    <また愛宕山>
    なぜか、6月11、12日、また山梨県の愛宕山に他のグループの方の車に便乗し、参加することになりました。その際は宜しくお願いします。

    <我が家のアーカイブズ>
    夏までにある一定の水準までに仕上げたいと思います。でも、上手く書けないんです。

    <総 括>
    今週は、JR東京駅の切符売場で怒った(JRの対応のまずさを指摘、JRが謝罪しました)以外は、「仏ののぶ」で通しました。特筆すべき事項もなく穏やかなで平凡な一週間でした。


             平凡なのが一番いいのか?







    未分類 | 21:06:12| Trackback(0)| Comments(0)
    のぶ家のアーカイブズ
    私は、自分がアルコホーリックであると同時に、ACという立場も経験しています。ステップの棚卸しをかねて、私自身や家族の人生における問題点、楽しかった事を簡単にまとめ始めています。

    例えば、私の母は、家庭環境から、今まで厳しい人生を歩んできました。そのことを私にも愚痴るのですが、なぜか、「学校を卒業してから父に出会うまでの期間」のことをあまり聞いたことがありません。
    その頃のことを伯父に聞くと「あの頃は、つらすぎて、お前にも話したがらないのだろー」と言われました。でも、父母の人生、私のルーツをたどるためにも、そういう「暗部」ともいえる時期のことこそ、記録(アーカイブズ)に残していきたいと思うのです。

    例えば、企業の歴史を辿ってみても、三井、三菱、住友といった成功した財閥・企業群には記録、歴史が詳細かつ華々しく残されているのですが、同じころ、倒産した「鈴木商店」という財閥にも匹敵するような企業の記録はあまり残っていません。 まず、企業が倒産すると帳簿、日誌等の記録物がなくなり、事実を知る従業員もいなくなってしまうからです。ましてや、「失敗の体験」をこと細かく記述するのは辛い仕事だと思うのです(これは私の専攻分野でもあります)。


    皆さんにも覚えがあると思います。AAのミーティングといえども、どうしても話せないこと(秘密)が必ずや一つや二つあるでしょう。それはきっと、「いい話」ではなく「悪い話」に属する部類のものと推察します。したがって、のぶ一族においても、楽しかったことには話に花が咲くけれども、辛かったことには口を瞑るもの、蓋をしたいものでしょう。

    この仕事は、時間が経てば経つほど不明瞭な部分がでてきてしまいます。両親・関係者がボケたり、亡くなってしまったら闇に葬られてしまうからです。
    まだ、構成の段階ですが、これをまとめ、生きるための糧としていきたいと思います。出来上がりはいつ頃になるかなー、この夏の課題としたいと思います。

     のぶ一族は、どのような歴史をたどってきたのだろうか?

    未分類 | 22:05:35| Trackback(0)| Comments(1)
    新旧のぶ家の食卓
    ある、食文化研究家(茶道研究家)によると、昔の食卓と言うものは、「主」(卓袱台)を囲んで無言で食事し、そこは礼儀・作法を教える厳しい場でもあったとういう。では、新旧のぶ家の食卓を再現すると…

    <旧のぶ家:実家>
    親父は大工のため、仕事の終わりは定刻17時。仕事は市内が多かったから30分後には家にいた。かたや母さんもその時間に終わり、近所の八百屋へと出かける。

    親父は、相撲の時期は「頑として相撲」。他の子供向けアニメなど絶対に見せてはくれなかった。親父はTVを見ながら、つまみは、刺身(特に皮付カツオ)、焼酎のお湯割りでもなんでもかんでも、飲んでいた。相撲が終わるとこれまたニュース。ニュースの内容など、無学の父が全部理解できるはずはないと思うが、これまたお決まり。
    その間に、母親がマッハのスピードで食事を作る。これが結構上手いのである。
    そして19時頃、「家族そろってでいただきます」。なお、建て前(舞)などで帰りがおそくなるとまたされるのであった。

    <現在のぶ家>
    「×(ペケ)社員」と言えども、一応、金融機関の身分。
    TVなどでは競争が厳しい金融業界にあって、金融マンが帰宅するのは22時を回る…なんていうのは事実誤認。
    私は、娘が小学校にあがる前から、派遣先の会社を定刻前に「お先に失礼」。さらに、今の会社(研究所)に戻ってからも、上司がいようといまいと「お先に失礼」。残業代を請求していないし、疾病社員と言うこともあり、「もっと仕事してけよー」の批判は過去一度もなし。それから件の電車(麒麟の男:参照)に乗って帰っても19時前には帰宅できる。

    こちら、パートのかみさんの料理の手際はあまり上手ではない。TVのチャンネル権はかみさん。天気予報が好きなのである(朝は占いにこる)。
    でも、「家族そろっていただきます!」。

    諸外国ではアメリカの一部のビジネスマンを除き、このスタイルが全世界で当たり前。米国のビジネスマン、日本のサラリーマンが異常なのである。
    娘に、「今日、学校の漢字テストはどうだった」、「○○ちゃんとは仲良くやってるかー」と食事時に何気なく聞く。私は、会社のグチしか出ないから、あえて言葉にしない。妻のことを聞くと、人間関係が複雑で理解するのが困難である。

    かみさんは料理はあまり上手ではないく(自覚しています)、薄給のため皿数は少なく、節約料理しか食べれないがバランスが取れており(後日その理由を公開予定)私は、家庭を犠牲にしてまで、ぎらぎら働くことなく、「×社員」として食事を共にする道を選択した。
    会社では「×」でも家で「◎」がつけばいいのではないでだろうか。「家族の団欒」、これからも、事情が許す限り続けて行きたい。


              「家族そろって、いただきまーす」


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    未分類 | 18:00:09| Trackback(0)| Comments(2)
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